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11.01.05.品川第三砲台場跡(港区立台場公園。東京都) (2)

Photos: 11.01.05.品川第三砲台場跡(港区立台場公園。東京都) (2)

Photos: 11.01.05.品川第三砲台場跡(港区立台場公園。東京都) (3) Photos: 11.01.05.品川第三砲台場跡(港区立台場公園。東京都) (1)

mixiアルバム「港区台場 “台場”」コピペ──
https://photo.mixi.jp/view_album.pl?album_id=422201188602679&owner_id=32815602
2010年09月28日 01:04

13号地。
砲台場…。
レインボーブリッジ。

アクアシティお台場前方にあるのが第六台場。海浜公園前方?が第三台場。
嘉永6年(1853)、ペリー艦隊が来航して幕府に開国要求を迫る。これに脅威を感じた勘定奉行の川路聖謨らが動き、幕府は江戸の直接防衛のために海防の建議書を提出した伊豆韮山代官の江川太郎左衛門に命じ、洋式の海上砲台を建設させた。
品川沖に11基の台場を一定の間隔で連鎖的に築造する計画だった。工事は急ピッチで進められ、およそ8ヶ月の工期で1854年にペリーが2度目の来航をするまでに砲台の一部は完成し、品川台場(品海砲台)と呼ばれた。
お台場という呼び方は、幕府に敬意を払って台場に御をつけ、御台場と称したことが由来。埋め立てに用いる土は高輪の八ツ山や御殿山を切り崩して調達した。
ペリー艦隊は品川沖まで来たが、この砲台のおかげで横浜まで引き返し、そこでペリーが上陸することになった。台場は石垣で囲まれた正方形や五角形の洋式砲台で、まず海上に第一台場から第三台場が完成、その後に第五台場と第六台場が完成した。第七台場は未完成、第八台場以降は未着手で終わった。第四台場は7割ほど完成していたが中止され、その後は造船所の敷地となる。また第四台場の代わりに品川の御殿山のふもとに御殿山下台場が建設され、結局、合計8つの台場が建設された。
この砲台は十字砲火に対応しており、敵船を正面から砲撃するだけではなく、側面からも攻撃を加えることで敵船の損傷を激しくすることを狙ったものである。2度目の黒船来襲に対し、幕府はこの品川台場建設を急がせ、佐賀藩で作らせた洋式砲を据えたが、結局この砲台は一度も火を噴くことなく開国することとなった。

現代。13号埋立地は港区・品川区・江東区に分割されている。管轄区の決定にあたり地先ルールと交通上の接続が考慮され、その項目をクリアしている3区が相互に退かず、1982年10月に出された調停案により分割された。
お台場付近は港区・江東区・品川区のちょうど境界線にあたる。東京国際展示場とテレコムセンターは江東区、船の科学館は品川区、フジテレビは港区にある。ゆりかもめは港区からレインボーブリッジを通りお台場に入り港区、江東区に入り豊洲へと続く。

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