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10.10.18.増上寺塔頭良源院跡 移設浅岡飯炊きの井(芝公園1丁目)

Photos: 10.10.18.増上寺塔頭良源院跡 移設浅岡飯炊きの井(芝公園1丁目)

Photos: 13.10.03.増上寺塔頭良源院跡 移設浅岡飯炊きの井(芝公園1丁目)より南北 Photos: 10.10.18.日本近代初等教育発祥の地(小学校第一校・源流院跡。芝公園1丁目)

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2013年10月10日 14:07
●伊達騒動――
黒田騒動、加賀騒動または仙石騒動とともに三大お家騒動と呼ばれる。
騒動は3期に分類され、それぞれが関連性を持っている。

1、綱宗隠居事件――
3代 綱宗は遊興放蕩三昧だった。叔父の一関藩主 宗勝(政宗10男。伊達兵部)がこれを諌言したが聞き入れなかった。このため宗勝は、親族大名だった岡山藩 池田光政、柳川藩 立花忠茂、宮津藩 京極高国と相談し、老中 酒井忠清に綱宗と仙台藩家老に注意するよう提訴。酒井忠清はこれを実行したが、それでも綱宗の放蕩は止まなかった。
万治3(1660)年7月9日、家臣と親族大名(池田光政・立花忠茂・京極高国)の連名で、綱宗の隠居・嫡子 亀千代(綱村)の家督相続を幕府へ願い出た。
7月18日、綱宗(21歳)は強制隠居となった。4代藩主にわずか2歳の伊達綱村が就任した。
7月19日、宗勝の命で綱宗近臣、渡辺九郎左衛門・坂本八郎左衛門・畑与五右衛門・宮本又市の4人が成敗されている。

綱宗の隠居の背景には、綱宗と第111代後西天皇(在位承応4年11月28日(1655年1月5日)~寛文3年1月26日(1663年3月5日)))が従兄弟同士(母親が姉妹)だったため、仙台藩と朝廷が結びつくことを恐れた幕府が綱宗と仙台藩家臣、伊達一族に圧力をかけ強引に隠居させたとする説もある。
綱宗は品川の大井屋敷に居住、作刀などの芸術に傾倒していったと伝わる。
コレを題材にした読本や芝居に見られる、吉原三浦屋の高尾太夫の身請け話やつるし斬り事件などは俗説とされる。「万治元(1659)年12月、隅田川三又で綱宗に遊船の中で吊し斬りにされた」、「仙台侯が請出して56歳で天寿を全うした」などの逸話が残るが、実際この時代に吉原三浦屋には「高尾」名跡の遊女は存在していない。
※高尾稲荷→ http://photo.mixi.jp/view_photo.pl?photo_id=1885102352&owner_id=32815602
コレに対して、綱宗は後西天皇の従兄弟であることから幕府から警戒されていたために、保身のため暗愚なふりをしていたという説もある。実際綱宗は、風流人で諸芸に通じ画は狩野探幽に学び、和歌、書、蒔絵、刀剣などに優れた作品を残している。「花鳥図屏風」(六曲一双 紙本金・銀地著色)をはじめとした作品が仙台市博物館に所蔵されている。

2、寛文事件――
※一般に伊達騒動とはこの寛文事件を指している。
綱村が藩主就任後は(大叔父 宗勝・田村宗良(2代忠宗3男)が後見人)、宗勝や上位相談役である立花忠茂が信任する奉行(家老相当) 奥山常辰が政務を行った。その失脚後は宗勝ひとりが実権を掌握し権勢を振るった。
宗勝は監察権を持つ目付の権力を強化し寵愛(目付上がりの小姓頭 渡辺義俊ら)、奉行を上回る権力を与えて自身の集権化を行なった。奉行衆に軋轢を生じさせる書簡を発している。奉行の原田宗輔(原田甲斐)もこれに加担し、その中で諫言した里見重勝の跡式を認可せず故意に無嗣断絶に追い込む、席次問題に端を発した伊東家一族処罰事件などが起きている(寛文7(1667)年、幕府国目付への饗応での席次を柴田朝意と原田宗輔が決めた。本来なら着坐3番目の席次には古内重定(田村宗良の甥)と伊東重門(宗良の義弟)だが、これを差し置いて宗輔の子 宗誠を上座に付けたため、これに憤った伊東重孝らが奉行衆に抗議し、諍いに発展した)。
奥山を失脚に追い込んだ一門の伊達宗重(涌谷伊達氏)と、宗勝の甥 伊達宗倫(登米伊達氏)の所領紛争(谷地騒動)が起こる。宗重は裁定案(係争地を宗倫2:宗重1の割合で配分することで合意)を呑んだものの、宗勝寵臣の今村を筆頭とする検分役人による郡境検分で宗倫4:宗重1の割合に変更したことから、宗勝派の専横を幕府へ上訴する(不正告発)に至った。

寛文11(1671)年1月25日、柴田朝意(とももと)は騒動の審問のために伊達宗重より早く江戸幕府より江戸出府の命を受け、仙台より江戸に立つ。朝意は未解決の奉行誓紙問題や宗勝の悪事も証言するつもりであり、この頃までには宗勝や原田を糾弾する意図を固めていた。また朝意は田村宗良に、自身の老齢を理由に古内義如(ふるうちよしゆき。奥山派)の江戸出府を要望する。
同年3月7日、伊達宗重、柴田と原田が老中板倉重矩邸に呼ばれ、土屋数直列座の下で1度目の審議が行われた。最初に朝意が審問を受けた。この審問で、藩主 綱基(綱村)への処分がないことが確定、この旨の書状を朝意は隠居の綱宗附家老や田村家家老に送っている。
なお、原田と柴田の証言の食い違いにより、古内も呼ばれることとなった。
3月27日、当初予定の板倉邸から大老 酒井忠清邸に場所が変更される。酒井忠清を初め老中全員と幕府大目付も列座する中で2度目の審問が行われた。
柴田朝意の審問中、控え室にて原田甲斐は宗重を斬殺、老中のいる部屋へ抜刀のまま向かって突入した。驚いた柴田は原田と斬りあいになり、互いに負傷する。聞役の蜂屋可広(江戸留守居相当職。はちやよしひろ)も柴田に加勢したが、混乱した酒井家家臣に3人とも斬られた。原田は即死、柴田は当日中に、蜂屋は翌日死亡した。

事後、正式に藩主綱村は幼少のためお構い無し。大老宅で刃傷沙汰を起こした原田家は、男子4人・男子の孫2人は養子に出された者や乳幼児を含め全員切腹、斬首。妻と娘は他家お預けの処分。一家断絶となった。裁判の争点となった宗勝派および藩主代行としての責任を持つ両後見人、年長の後見人としての責務を問われた伊達兵部の一関藩は改易。宗勝一家には永預の処分が下った。宗勝自身は土佐藩 山内豊昌預かり、嫡男 宗興は豊前小倉藩 小笠原忠雄預かり、その妻子は伊予吉田藩 伊達宗純預かり、宗勝の側室2人と子4人(虎之助・兵蔵・於竹・於妻)は岩出山の伊達宗敏預かりとされた。この処分により一関伊達氏は宗勝一代で断絶、一関藩領3万石は仙台本領に復帰、家老 新妻胤実以下一関藩士らは仙台本藩に帰属した。田村宗良は閉門となった(約1年で赦され復帰)。

※刃傷事件の顛末は、当事者のものとしては古内義如の書状や酒井家家臣の記録、伝聞としては伊達宗重家臣 川口が事件直後に古内に聞いた話、末期の柴田から家臣や藩医が聞いた話、同じく虫の息の蜂屋からその息子や娘婿が聞いた話などがある。公式記録としては「徳川実紀」や「寛文年録」、仙台藩の「治家記録」などがある他、後世の実録物を加えるとその量は多い。
歌舞伎「伽羅先代萩」・「伊達競阿国戯場」、山本周五郎「樅ノ木は残った」などの題材となっている。

※大老 酒井忠清と宗勝が密約を結び、仙台藩を事実上乗っ取るつもりだったという説もある。
寛文4(1664)年、忠清正室の妹(姉小路公景4女)を忠清の養女とし、嫡男 宗興の正室に迎えている。このとき伊達騒動の渦中で、宗勝と対立していた田村宗良・伊達宗重・伊達宗景らへの対抗手段を得るため、忠清との関係強化を図った宗勝の意向だという。

3、綱村隠居事件――
4代綱村は、寛文事件が落着した後、藩主としての権力(自身の確たる立場)を強めようと考え、側近を藩の重職に据えるようになった。これに不快感を示した一門と旧臣は、綱村に諌言書を提出したが聞き入れられなかった。元禄10(1697)年、一門7名奉行5名の連署で、幕府に綱村の隠居願いを提出しようと試みる。しかし、伊達家親族の高田藩 稲葉正往が隠居願いを差し止めた。
その後も再三にわたり、一門・家臣の綱村に対する諌言書の提出が続く。
元禄14(1701)年、稲葉正往老中就任。
元禄16(1703)年、この内紛が5代綱吉の耳に達し、仙台藩の改易が危惧されるようになった。
稲葉正往はこれを綱村に説明し、隠居を勧告。これに促され、綱村は幕府へ隠居願いを提出した。
綱村には実子が無かったため、従弟の伊達吉村が5代藩主となった。

伊達騒動は、綱村の隠居で終止符が打たれたことになる。

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